各国なりの解釈で、過去の事を非難し続けられると、辟易してしまうこともあるのが本音です。
しかし、未体験者の批判と訴えばかりではなく、自分のみたこと、体験したことだけを語ることで、どれだけ苦しかったかが切々と伝わってくることがあります。
約1年半前の出来事を、忘れないために書き留めておくことにしました。
サンディブッフェで出会った白髪の老紳士
ジョホールバルのセナイ空港近くに、ソフィテルというゴルフ&リゾートホテルがあります。ソフィテルでは、2004年頃からだったか、お昼~3時ごろまで、食べ放題、飲み放題、かつ、子供たちの面倒までみてくれるという、驚くようなサービスのサンディブッフェが行われてました。
日曜日は、友人家族たちと連れ立って、そのホテルのプール際で、食べて飲んで会話を楽しむ午後をゆったりと過ごすことが多くありました。
2005年の後半だったとおもうのですが、多くの友人家族は、海外駐在の任期を終えて去ったあと。私たちを含めた3家族だけで、テーブルを囲んでサンディブッフェを楽しんでいた、とある日曜日の午後。
いつものごとく、結構、どうでもいいことでゲラゲラと笑って過ごしているところ、通りすがりの白髪の老紳士と、ちょっとした挨拶をかわしたことから、一緒にテーブルを囲み話をすることとなりました。
戦前からマレーシアのジョホールバルに滞在していたイギリス人一家
この老紳士の年齢は伺いませんでしたが、戦前~戦時中にマレーシアのジョホールバルに在住していたイギリス人一家の長男ということでした。第二世界大戦終了間近、シンガポールのチャンギ捕虜収容所へ送られ、終戦時、イギリスへ送られた時に10歳位であったということ。
その時代背景から、70弱の方だと推測は出来たのですが、炎症を受け全快できなかったという皮膚の状態と、骨の弱りか、杖をつかれた姿は、 80歳を超えた方にみえました。
子供時代をマレーシア、ジョホールバルで過ごし、イギリスに送られた際、マレー語とわずかな英語しか話せなくて非常につらい思いをしたこと。
ここマレーシアが私の祖国のようなもんなんだ、と穏やかに話しをはじめられました。私達の、どうしてイギリスへ戻ったのかという問いに、非常に居心地悪そうに第二次世界大戦のはじまった時の事を話し出されました。
コーズウェイの建設に関わっていたイギリス人の家族
お父さまが、ジョホールバルとシンガポールを結ぶ、コーズウェイ建設に携わっていたことから、 幼少時からジョホールバルでの生活に慣れ親しんでいたどころか、マレーシア生まれの、白い肌のマレーシア人だとおもっていたこと、
ジョホールバルが、日本軍に占領されたことで、シンガポールのチャ ンギ捕虜収容所へ送られたこと、(1942年のことだと思います)
いつもいつも、ひもじい思いをしていたこと
幼児期をこの環境にて過ごした為、5歳になっても歩くことの出来なかった弟さんのこと、
死体の転がる海辺 など、生まれ育ったジョホールバルで、優しい両親、地元の人たちに囲まれ、自然のなか、とてものびのびとした生活から一転しての収容所生活。
ジョホールバルのダンガベイ前には、スペイン風住宅やチュドースタイル住宅が並ぶところがあります。
イギリスの要人家族が住んでいたといわれる、あの場所で過ごされたんだろうなという様子が、リド(海辺)やジャングルで過ごしていたという話から推測できました。
チャンギ収容所からイギリスへの道のり
壊死状態の皮膚に効果があると、日本兵から大笑いをされながら小水をかけられたこと
終戦時、家族ともばらばらに船につめこまれ、くらい船底で過ごしたこと、
イギリスにたどりつき、やっと母親とめぐりあえたこと、ぽつぽつと話しながら、この老紳士は、一度だけ「I hate Japanese」と静かに口にだされました。
不思議とその後の家族の話をされませんでした。
きいてみると、弟さんは収容所で亡くなられたとのこと。
その後、お母様からは、抱きしめたり優しく声をかけたりとの、母親的愛情表現はなくなってしまったそうです。
どのくらいの時間、話をきいていたのかおもいだせません。
彼自身、記録として書きとめようと思ったこともあるそうですが、どうしても書けないんです、ということでした。
逆に謝られることに…
どうしてもじっと聞いていられなくなり、サングラスの下の涙をとめることもできず、席をたちました。その間、私の、きっとこの老人にはきこえなかった「ごめんなさい」といったつぶやきと、行動を察した友人から、この老人に、私が日本人であることが伝わっていました。
テーブルにもどると、この老紳士から、「ごめんなさい。日本の人とは思わず、嫌な思いをさせてしまって御免なさい」と逆に I am sorry と謝罪されたのです。
私は本当に日本人の事を憎んでいたんです。
今も憎んでいないといえば嘘になります。
でも、私が会った日本人が嫌いだという事で、あなたを個人的に非難している訳ではないんです。
本当にごめんなさい。と続けられました。この時のグループは、イギリス、オーストラリア人のカップルにオランダ人と私達。
考えてみると、イギリスにしてもオーストラリアにしても、戦時、このアジアの国々で(チャンギを含め)捕虜として過酷な時期を過ごした国々の人達。
彼ら彼女らも歴史から、もしくは両親、祖父母から日本の酷さを伝えられています。
たまに、ジョークとしてこのような事がでてきても、彼ら彼女らは、個人として向き合ってくれます。
そして、この老紳士も、憎しみは消えないのかもしれませんが、国批判=個人攻撃とせず、なんと私に対して逆に謝罪をされたました。
この日の話は、反日感情の強さを直に受け止めることになってしまったものの、ただただ、人間の愚かさ弱さ(弱者という意味ではなく、権力の指示に従うどころか、必要以上の権威を示してしまう部分)を考えさせられた日でした。
子供達への教育の基本は、マナーとリスペクト(行儀と敬う気持ち)が大事だと思っているのですが、他者への敬意を身につけるというのはなかなか難しい事なのかもしれません。
このイギリス人老紳士の憎しみおさえつけての、マナーと敬意を自然に表された姿には素直に感動してしまいました。
同じ反日感情でも…
これよりも前の年になるのですが、友人主催のプール際パーティで、私を日本人であると思わなかった地元チャイニーズの方、イギリス人友人の、イギリス人のこと嫌いでしょ?なんて、冗談を受け、
とんでもない、イギリス人には何の反感もないけど、日本人は許せない、と怒りをあらわにされた場にいあわせたこともあります。さすがに、日本人であることをじっと黙ってきいてましたが、これは、この老紳士との話のような感慨深さは何もでてきませんでした。
その後、その女性がさったあと、ジョークをもちだした男性から、まさか、日本人にふるとは思わなかった。ごめん。と、やはり謝られてしまいました。
まったく、イギリス人というのは、日本人同様よく謝る人たち
人に靴をふんずけられても、狭い通路でトローリーをぶつけられても、大体、瞬間的に「ごめんなさい~。大丈夫~」と、自分のいたみも省みず、ふんずけてきた相手に謝るのは、日本人かイギリス人ぐらいです。柔軟性をもつことと共感のすすめ―他人の靴をはいてみる
こんな英語のフレーズ聞かれたことはないでしょうか?Put yourself into the other person's shoes. 他人の靴を履いてみなさい
Walk a mile in someone's shoes. 誰かの靴で1マイル歩いてみなさいともに、他人の立場になって考えてみなさい、他人の視点で ものごとをみてみなさい、なんてことですが、
こんなフレーズを一般化したといわれる、ハーパーリーの「To Kill a Mockingbird(アルバマ物語)」の中のフレーズ。
You never really know a man until you understand things from his point of view, until you climb into his skin and walk around in it. 人を理解することって決してできないんではないだろうか―その人の見解を理解するまでは―その人の肌によじ登って、歩き回ってみて、やっと解かるかもしれないんじゃないだろうか…このイギリスの老紳士との最後のやりとりで感じたのは、まさに、こんな柔軟性と共感力がある人かどうか、ということだったのかなと思います。
チャンギ捕虜収容所の日本兵の連合軍捕虜にシンガポール人への扱いが、非情なものであったことから、イギリス、オーストラリアにシンガポールで日本人に対する嫌悪感を持つ人たちは、まだまだいます。(マレーシアでも同じです)
でも、そんな中、このときの日本兵の立場を受け入れ、国でいわれたことが全てである日本兵にしてみると、簡単に降伏し自決をすることのない連合軍兵の様子は、国家や家族への裏切り行為におもえたこと。
こんな風に、それぞれの立場を理解してみることが、
Always Forgive but Never Forget 許すこと そして決して忘れないことに結び付けて、それぞれを尊重できる平和な心をもつための秘訣なのかもしれません。
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