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2017-09-26

ミャンマーでヒンズー教徒の死体発見―マレーシアからも非難の声

ミャンマー政府軍とロヒンギャ問題は、伝わってくるニュースだけではよくわかりません。今回、ヒンズー教徒の集団死体が発見されたことから、政府はトヒンギャ反乱軍の行為であると発表。

以前よりミャンマーの難民を受け入れるマレーシアからも非難の声があがっています。

[写真引用: The Guardian - バングラデッュへ逃避したロヒンギャ難民が食べ物を待つ行列]

ロヒンギャ反乱軍の攻撃によるものなのか?

[ミャンマー] ミャンマー政府軍は、日曜日、ラカインで発見された28人のヒンズー教徒の死体はロヒンギャ反乱軍の攻撃によるものと推測していることを発表。

それを受けたロヒンギャ救済軍(ARSA - Arakan Rohingya Salvation Army)は、ヒンズー教民間人の攻撃はしていないと否定。

国連は、この一ヶ月間の騒動に対応して、ラクハイン州北部での政府の攻撃を民族浄化と指摘するも、ミャンマー政府は、仏教徒が400人以上殺されたとして、テロリストとの戦いであって民族浄化ではないと主張。

そして、これまた少数民族であるヒンズー教徒は、そんな闘争の中にあって、すでにバングラデッシュに逃げた人たち、政府側のスパイ疑惑でロヒンギャ救済軍に襲われたと訴える人があるかと思うと、ミャンマー政府軍兵士や仏教徒自警団に襲われたと訴える人たちも。

現在、ジャーナリストだけでなく人権擁護団体や援助部隊もこの地域へのアクセスは制限されており、現地で事実を確認するのが不可能な状態であるとのこと。
[9月25日 The Guardian  | 翻訳/要約:Tropicallife]

スーチー氏への非難

現職についた直後、政治決定権はすべて私にあるなどと少し独裁的な色をだしてきたスーチー氏。

それ以降、ミャンマーでは自由な発言をすることが制限されはじめ、ジャーナリストが次々と逮捕される中での国連の問いに、法にのっとるべきであるという主張を通したスーチー氏。

スーチー氏の決して人権平等主義者とは思えないミャンマーの少数民族への無関心な態度は今にはじまったことではないものの、この頃の急速に広がっている欧米各国でのスーチー氏批判に、ノーベル賞の取消まで求める声にとまどいも感じるところ。

冷血的な態度への批判がでるほど、スーチー氏への期待が高かったことは伺えるものの、民主主義を訴える綺麗なスーチー氏が、イギリス、アメリカで「アジアの圧政的国家で、自由をかちとるために戦うジャンヌダルク」的なシンボルとして使われてきたことは一目瞭然であったはず。

平等にあつかわれる権利、自由に発言する権利が保障されているのが民主主義だとすると、スーチー氏のたたかってきた目的は一体なんだったのか疑問が残るものの、欧米国にそそのかされた感のある革命に、本人のみでなく、メディアを通して世界中が酔いしれていたのは確か。
  • 人権を無視されつづけてきた少数民族が旧軍政権に反するよう扇動したのはスーチー氏
  • 人権を守るはずの民主主義の筆頭となったとき、助けを求めてやってきた少数民族を、ミャンマー人がおこるからと足蹴にしたのもスーチー氏
  • 旧軍事政権繋がりから政党員が報酬を受け取ったことへの批判に関しても、肯定的な反応を示すばかり

難民受入国のマレーシアも非難

多民族多宗教が混在するマレーシアも、スーチー氏の少数民族への未対応に隣国にならんで非難を続ける中、何年か前からミャンマーからの難民を受け入れています

ところが、その生活援助はもとより、子供達の教育援助を考えると決してよい状態ではないように思えます。

そんな中、これからも増えていく難民と受け入れる国々の責任、そして、何よりも自国で難民をつくりだしてしまうことの複雑さに、ニュースを読みながら呆然とするこのごろ。

なんとも難しい問題ながら、スーチー氏の言動からノーベル平和賞に値する人物なのかどんどんと疑問がわくなか、マハトマ・ガンディーがノーベル平和賞を受賞していなかった事を知り愕然。

以下は、wikiによるマハトマ・ガンディー氏がノーベル平和賞を受賞できなかった理由です

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マハトマ・ガンディー氏とノーベル平和賞

死後数十年経ってからノーベル委員会が公表した事実によると、ガンディーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた(1948年は暗殺の直後に推薦の締め切りがなされた)。
これについてノーベル委員会は、ガンディーが最終選考に残った1937年、1947年、1948年の選考に関しウェブサイト上で以下のように述べている (Mahatma Gandhi, the Missing Laureate)。
1937年には、彼の支持者の運動が時として暴力を伴ったものに発展したことや、政治的な立場の一貫性に対する疑問、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があった。
1947年は、当時インドですでに起きていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立への対処に関し、ガンディーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしたことで、選考委員の間に受賞に対する疑問が起きた。
1948年は最終候補3人の1人で選考委員からは高い評価を得ていたが、故人に対してノーベル賞を与えられるかどうかで議論が起きた。
当時は規定で除外されていなかったが、何らかの組織に所属していなかったガンディーの場合、賞金を誰が受け取るかが問題になった。
最終的に、受賞決定後に死亡した場合以外は故人に賞を与えるのは不適切だという結論となった。ガンディーがもう1年長生きしていれば、賞を与えられていたと考えるのが合理的であろう。
ガンディーがそれまでの他の平和賞受賞者とは異なるタイプの平和運動家であったこと、1947年当時のノーベル委員会には今日のように平和賞を地域紛争の平和的調停に向けたアピールとする考えがなかったことが影響している。委員会がイギリスの反発を恐れたという明確な証拠は見当たらない。
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